ジャハーンギール・ホージャ

アクスの戦い

ジャハーンギール・ホージャJahangir Khoja1788年 - 1828年6月25日[1])は、コーカンド・ハン国軍人で、ホージャ復活を唱え、に反乱を起こした。カシュガルホージャブルハーン・アッディーンの孫でホージャ・サリムサク(中国語版)の子。

生涯

出自

詳細は「ホージャ」を参照

コーカンド・ハン国カシュガル・ホージャ家に生まれた。ホージャとはイスラム神秘主義スーフィーナクシュバンディー教団に由来し、17世紀頃より東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区一帯)地域ウイグル人の指導者の称号である。

ジャハーンギールの祖父のブルハーン・アッディーンはアーファーキーヤ(白山党)に属し、1755年に清の乾隆帝ジュンガルと争い、東トルキスタンを征服した際に牢獄より解放され、清軍によるタリム盆地に協力した[2]。そのため清よりイリのムスリムを管理するよう命じられたが、のちに清に反抗した[2]。1758年、清は再びタリム盆地に侵攻し、タリム盆地全域を占領し[2]、このときにブルハーン・アッディーンは処刑された[3]

このとき一族はほとんど捕縛されたが、ブルハーン・アッディーンの子のホージャ・サリムサク(中国語版)は逃れた[3]

ホージャ復興運動

ホージャ・サリムサクの子であるジャハーンギールはカーブルで学問を修めた後、清への抵抗運動を開始する。清の支配から東トルキスタンを回復してホージャの統治を復活させようとした。

蜂起

1820年から3度にわたって東トルキスタン南部に潜入して蜂起を行った。清とコーカンド・ハン国は秘密に協定を結んで、ジャハーンギール・ホージャを幽閉した。

しかし1826年5月にフェルガナ盆地で起こった地震をきっかけに脱出し、カシュガルに入った。カシュガルに現れた時には数百人の支持者しかいなかったが、コーカンド・ハン国のムハンマド・アリー・ハーンも、ジャハーンギールを支持し[3]、軍事支援を行い、数カ月の間に20万人に膨れ上がり、カシュガル、ヤルカンドイェンギサールホータンを占領した。

清はイリ将軍の長齢(チャンリン)・陝甘総督楊遇春・山東巡撫ウルンガ(武隆阿)・甘粛提督の斉慎に命じて吉林省黒竜江省陝西省甘粛省四川省から兵を集めさせた。1827年アクスでの戦いでジャハーンギール・ホージャは敗北し、カシュガルなどを失った。

最期

その後1828年にジャハーンギール・ホージャは捕えられて北京に護送された。その後道光帝による尋問の後、処刑された。死体は切り刻まれ、犬に与えられたという。

その後

しかし、清は財政が苦しく、コーカンド・ハン国への懲罰行動はできなかった[4]。そのため、ホージャ・サリムサクの子孫らは1860年代まで、新疆への侵入を繰り返した[3]

また、1830年にはコーカンドはカシュガルを占領するが、このときも清軍は鎮圧できず、禁輸令を緩和した[5]

参考文献

  • 小松久男編『中央ユーラシア史』山川出版社、2000年
  • 小松久男「コーカンド・ハーン国」『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年
  • 『アジア歴史事典』平凡社、1959年-1962年
  • 佐口透『18-19世紀東トルキスタン社会史研究』吉川弘文館、1963年。doi:10.11501/9525069。 NCID BN07085131。全国書誌番号:63004968。https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I002575461-00 
    • 羽田明「佐口透著「18~19世紀東トルキスタン社会史研究」」『東洋史研究』第22巻第3号、東洋史研究會、1964年2月、399-407頁、doi:10.14989/152639、ISSN 03869059、NAID 40002659341。 
  • 新免康, 菅原純「カシュガル・ホージャ家アーファーク統の活動の一端:ヤーリング・コレクション Prov.219について」『東洋史研究』第61巻第3号、東洋史研究會、2002年12月、552-522頁、doi:10.14989/155440、ISSN 03869059、NAID 40005641430。  33-63頁より

脚注

  1. ^ 趙爾巽 (中国語). 《清史稿‧卷十七‧本紀十七‧宣宗本紀一》. 中華民國. "壬子,上廷訊張格爾罪,磔於市。" 
  2. ^ a b c 小松2000,p.305
  3. ^ a b c d 小松2000,p.310
  4. ^ 小松久男編『中央ユーラシア史』山川出版社2000年,p310
  5. ^ 小松2000,p.311

関連項目

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