ドミトリー・コンスタンチノヴィチ (ロシア大公)

ドミトリー・コンスタンチノヴィチ
Дмитрий Константинович
ドミトリー・コンスタンチノヴィチ大公、1902年

出生 (1860-06-13) 1860年6月13日
死去 (1919-01-28) 1919年1月28日(58歳没)
ペトロパヴロフスク要塞
家名 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
父親 コンスタンチン・ニコラエヴィチ
母親 アレクサンドラ・イオシフォヴナ
テンプレートを表示

ドミトリー・コンスタンチノヴィチДмитрий Константинович, 1860年6月13日 - 1919年1月28日)は、ロシアの皇族。ニコライ1世の孫で、ロシア大公の称号を有した。

コンスタンチン・ニコラエヴィチ大公とその妻アレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃(ザクセン=アルテンブルク公女アレクサンドラ)の間の第5子、三男。長くロシア帝国軍で軍務についた。ドミトリーはロシアの国政に関わったことはなかったが、皇帝ニコライ2世の系累であるため、ロシア革命後の1919年、ボリシェヴィキ政府の命令でペトロパヴロフスク要塞の城壁で銃殺された。従兄弟のニコライ・ミハイロヴィチ大公、ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公も、この時ドミトリーと共に処刑された。

ウィキメディア・コモンズには、ドミトリー・コンスタンチノヴィチ (ロシア大公)に関連するカテゴリがあります。
1918年6月12日
ペルミ
  • ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公
1918年7月17日
イパチェフ館
1918年7月18日
アラパエフスク
1919年1月28日
ペトロパヴロフスク要塞
*新致命者として正教会に列聖された者 / **ロマノフ家の一員であるがロシア皇族の称号を有さない者
第1世代
第2世代
  • ピョートル2世
  • ピョートル3世
第3世代
  • パーヴェル1世
第4世代
第5世代
第6世代
第7世代
第8世代
第9世代
第10世代
1ロシア大公として誕生したが、アレクサンドル3世の布告により大公の地位を喪失した。
2ロマノフ家協会(英語版)は、キリル・ウラジーミロヴィチによる家長位請求を認めていない。
3ロマノフ家協会は、ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフによる家長位請求を認めていない。
  • 表示
  • 編集
スタブアイコン

この項目は、歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。

  • 表示
  • 編集
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • FAST
  • VIAF
  • WorldCat
国立図書館
  • ドイツ
  • アメリカ
  • ポーランド