北郷忠虎
凡例 北郷忠虎 | |
---|---|
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 弘治2年(1556年) |
死没 | 文禄3年12月14日(1595年1月24日) |
別名 | 弾正忠、讃岐守 |
戒名 | 天室常清居士 |
墓所 | 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地 |
氏族 | 北郷氏 |
父母 | 父:北郷時久、母:本田薫親の娘 |
兄弟 | 娘(島津以久室)、相久、忠虎、 娘(比志島義智室)、三久、久村、忠頼、久栄 |
妻 | 正室:新納忠充の娘 側室:野辺盛忍の娘 |
子 | 忠能、野辺盛貞(忠能の異父同母弟) |
テンプレートを表示 |
北郷 忠虎(ほんごう ただとら)は、日向国の戦国武将。北郷氏11代当主。北郷時久の次男。
忠虎には同母兄の相久がいたが、天正9年(1581年)、突如時久と相久は不和となり、相久が自害に追い込まれたことによって嫡子となった。
天正初年度より島津氏に加勢し、天正9年(1581年)の相良義陽との戦いでは島津義虎とともに功績を挙げ、以後も主に肥後国方面での戦いに参加し、島津氏の九州制覇に大きく貢献した。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐に対しては島津義弘と共に強硬派であり、島津義久が降伏した後も父と共に都城に立てこもり抵抗の姿勢を見せたが、後に義久の説得により降伏する。その後の秀吉の扱いは抵抗した武将に対する物としては異例で、島津家を介さず直接所領安堵の朱印状をもらうなど大名に準じた扱いを受けている。
文禄元年(1592年)、朝鮮出兵により忠虎も同年3月3日に都城をたち、4月28日に釜山に着陣後は毛利高政の配下となり江原道まで転戦している。文禄2年(1593年)閏9月6日に、弟の三久を代理として送ることでようやく帰国の許可がおりる。しかし、帰国した翌文禄3年(1594年)3月に正室が死去。その喪も明けない7月にまた参陣の命が降り、再び朝鮮に渡る。同年12月14日、唐島(現在の加徳島とされる)で病死した。享年39。
正室との間に子供はなく、側室との間にいた一子・長千代丸(忠能)が跡目を相続した。
参考文献
北郷氏第11代当主 | |
---|---|
宗家 | |
総州家 | |
奥州家 | 氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-現在 |
分家・支流 | |
越前家 | |
播磨家 | |
伊作家 | |
薩州家 | |
相州家→ 垂水家 | |
豊州家 | |
玉里家 | |
加治木家 | |
佐土原家 | |
重富家 | |
和泉家→ 今和泉家 | |
宮之城家 | |
永吉家 | |
日置家 | |
北郷氏→ 都城家 | |
佐多氏→ 知覧家 |