水雷巡洋艦

ドイツ帝国海軍の「ツァイテン」
イギリス海軍の「アーチャー」
ロシア海軍の「ガイダマーク」[注 1]

水雷巡洋艦(すいらいじゅんようかん、英語: Torpedo cruiser)は、水雷兵器(特に魚雷)を主兵装とする巡洋艦。小型のものは水雷砲艦と称されており、排水量でいえば、水雷巡洋艦はおおむね1,000トン前後、水雷砲艦は500トン前後であったが、厳密な区別ではなかった。1880年代後半からは、味方の主力艦を護衛して水雷艇を撃退することも重視されるようになり、水雷巡洋艦よりは水雷砲艦が主流になっていった[1]。最終的には、外洋域の水雷襲撃や水雷艇駆逐といった任務は、水雷艇を発展させた駆逐艦によって行われるようになった[2]

概要

19世紀後半には、艦砲の技術の発達にもかかわらず、装甲技術も発達していたことためにその効果があまり上がらず、重砲でも大型の装甲艦を撃破することは難しくなっていた[3]。一方、この時期には水雷兵器が発達し、イギリス海軍は1872年にホワイトヘッド式魚雷を採用して、まず当時のフリゲートに装備した[4]。露土戦争中の1878年には、ロシア帝国海軍マカロフ大尉が指揮する艦載水雷艇がオスマン帝国海軍砲艦を襲撃し、イギリスから輸入したホワイトヘッド式魚雷によってこれを撃沈したことで、史上初の魚雷による戦果が記録された[5][注 2]

大陸ヨーロッパでは新造艦艇への搭載も進められており、例えば1875年ドイツ帝国海軍の発注によってテムズ鉄工造船所で起工された「ツァイテン」 (SMS Zietenは、排水量1,152トンで艦首尾にそれぞれ1門ずつの381mm魚雷発射管を備えており、公称艦種としては通報艦とされるものの、実質的には最初期の水雷巡洋艦とされている[6]。また同年にはイタリア海軍も「ピエトロ・ミカ」(526.5トン)を起工したものの[7]、所定の速力を発揮できず、失敗であった[1]。またフランス海軍も1883年よりコンドル級(1,229トン)を起工したほか[8]、ロシア海軍もこれを手本にして1885年に「レイテナーント・イリイーン」を起工した[9]

イギリス海軍でも、非武装の通報艦として建造されていたサプライズ級(英語版)に雷装を追加するとともに、1883-84年度計画では、これを元にした水雷巡洋艦としてスカウト級2隻を建造した。また1884-85年度追加計画でアーチャー級6隻、1885-6年度計画で更に2隻が建造されたほか、1888-89年度計画では高速化したバラクータ級4隻と改良型のバーラム級2隻が建造された[10]。これらの水雷巡洋艦は、基本的に、水雷艇の行動が難しい外洋域での魚雷発射プラットフォームとしての任を負っていた。しかし当時の魚雷の性能では目標に数百メートルまで接近する必要があったが、巡洋艦ではそのような肉薄攻撃に必要な隠密性や機動力が足りず、一方で艦型が小さいために航洋性も決して十分ではなかったため、やや中途半端な存在でもあった[1]。このためもあり、バーラム級を更に発展させて1893年度計画で建造されたピローラス級では雷装を削減する一方で艦砲を強化し、通常の防護巡洋艦(3等巡洋艦)とされた[10]

一方、水雷艇の普及とともに、それらの襲撃から主力艦を防護する必要が生じたことから、1880年代後半からは、水雷巡洋艦を元に小型・高速化を図った水雷砲艦が登場した[1][11]。しかしこれは外洋での航洋性が十分でなく、また小型の艦に大出力の機関を搭載するため、振動などのトラブルが絶えなかった。一方、敵の水雷艇の攻撃を防ぐには、より大型・強力な水雷艇をもってするのが効果的であるという考え方で登場したのが水雷艇駆逐艦であり、イギリス海軍が1892年度計画で建造した「ハヴォック」と「デアリング」が端緒となった。これらはのちに単に駆逐艦と呼ばれるようになったが、当時のいかなる水雷艇よりも大型・強力かつ高速であり、後には水雷巡洋艦と同様に外洋域での水雷襲撃も担当するようになっていった[2]

しかしながら、大日本帝国海軍では、自国近海、特に日本海とそれに接続する海域が荒れやすい傾向から、1,000トン未満の小型駆逐艦の運用に適していない為、他国では、駆逐隊、水雷戦隊を指揮する嚮導駆逐艦に相当する大型駆逐艦を水雷戦の主軸に据え、小型駆逐艦の運用は軍縮条約もあり早々に放棄した。この為、嚮導駆逐艦の地位に必要な指揮設備を持った大型水雷艦として天龍型を嚆矢とする軽巡洋艦をこれに当てた。これは、自国の吹雪型駆逐艦が発端となって駆逐艦が高度な艦橋設備を持つようになった1930年代に入っても、日本では水雷戦指揮用の水雷艦として軽巡洋艦を運用し続けた。1930年代後半には軽巡洋艦も重巡洋艦並みに大型化したが[注 3]、日本海軍はこの動きには乗らず、計画時は特殊用途の大淀を除き、阿賀野型軽巡洋艦まで一貫して水雷戦指揮艦として計画・建造され続けた。
なお、日本海軍は19世紀末の戦艦にも迫る大きさの重巡洋艦にも、最後まで魚雷発射管を搭載し続けた。

脚注

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注釈

  1. ^ 写真は日露戦争にて大日本帝国海軍に鹵獲されたのち、「敷波」として再就役した状態。日本では駆逐艦として類別された。
  2. ^ 史上初の実戦投入は、この前年にイギリス海軍の非装甲蒸気フリゲート「シャー」がペルー反乱軍の装甲艦「ワスカル」に対して発射したものであったが、このときは命中しなかった[5]
  3. ^ もっとも、元々、この動きは軍縮条約の制約下で重巡洋艦の艦体を建造しておくという、最上型重巡洋艦(建造時は軽巡洋艦、ただし主砲換装後も類別は日本海軍内規において軽巡洋艦が類別される二等巡洋艦のまま)が諸外国に与えた影響からきているが、日本海軍自身は1940年代に入ってからの大淀と阿賀野型まで新たに軽巡洋艦を建造しなかったため、このトレンドに乗ることはなかった。

出典

  1. ^ a b c d 石橋 2000, pp. 51–61.
  2. ^ a b 青木 1983, pp. 107–113.
  3. ^ 青木 1983, pp. 86–100.
  4. ^ 高須 1996.
  5. ^ a b Polutov 2012.
  6. ^ Gardiner 1979, p. 256.
  7. ^ Gardiner 1979, p. 346.
  8. ^ Gardiner 1979, p. 324.
  9. ^ Melnikov 2005.
  10. ^ a b Friedman 2012, ch.5 The Torpedo and Small Cruisers.
  11. ^ Gardiner 1979, pp. 88–90.

参考文献

  • Friedman, Norman [in 英語] (2012年). British Cruisers of the Victorian Era. Naval Institute Press. ISBN 978-1591140689
  • Gardiner, Robert (1979年). Conway's All the World's Fighting Ships 1860-1905. Naval Institute Press. ISBN 978-0870219122
  • Melnikov, Rafail Mikhailovich (2005年). Минные крейсера России (1886-1917). М.А. Леонов. ISBN 5-902236-21-5
  • Andrey V. Polutov「ソ連/ロシア駆逐艦建造史 (第1回)」『世界の艦船』第755号、海人社、2012年2月、187–193頁。NAID 40019142092。
  • 青木栄一『シーパワーの世界史〈2〉蒸気力海軍の発達』出版協同社、1983年。NCID BN06117039。
  • 石橋孝夫『艦艇学入門―軍艦のルーツ徹底研究』〈光人社NF文庫〉、光人社、2000年。ISBN 978-4769822776
  • 中川務「イギリス巡洋艦史」『世界の艦船』第517号、海人社、1996年11月。ISBN 978-4905551577
  • 高須廣一「兵装 (技術面から見たイギリス巡洋艦の発達)」『世界の艦船』第517号、海人社、1996年11月、188–195頁。ISBN 978-4905551577

関連項目

外部リンク

  • Глоссарий.ru: Крейсера (ロシア語)
  • Минные крейсера России (1886-1917гг) (ロシア語)
  • Вооруженные силы России: Русский флот : Современное состояние (1898 г) (ロシア語)
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