谷田部梅吉

谷田部 梅吉
人物情報
生誕 1857年
日本の旗 日本 出羽国秋田郡十二所(現・秋田県大館市
死没 1903年8月20日
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京大学 (旧制)仏語物理学科第2期卒業
学問
研究分野 物理学
研究機関 東京物理学講習所(現・東京理科大学
山口高等中学校
高等商業学校
鹿児島高等中学造士館
京都商業学校
学位 理学士
主な業績 後の東京理科大学の創立者の一人として貢献。
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谷田部 梅吉(やたべ うめきち、1857年安政4年4月[1]) - 1903年明治36年)8月20日[2])は、元東京大学 (旧制)図書館長の理学士で、秋田県士族。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。

経歴

  • 1857年(安政4年) - 出羽国秋田郡十二所(現・秋田県大館市)で、久保田藩士・谷田部三吉の長男として生まれる[2]
  • 1870年明治3年) - 貢進生となり、大阪南校に入学する。
  • 1879年(明治12年)
    • 7月 - 東京大学 (旧制)仏語物理学科第2期を卒業し、理学士の学位を得る[3]
    • 9月 - 東京大学予備門(後の第一高等学校)の教員となる[3]
  • 1881年(明治14年) - 東京物理学講習所の創立者の一人となる。同年、東京物理学講習所第2代所長となる。
  • 1882年(明治15年)7月22日 - 東京大学図書館第3代館長となる。
  • 1883年(明治16年)
    • 9月 - 東京物理学講習所所長を辞する。
    • 12月11日 - 東京大学図書館長を辞する。
  • 1885年(明治18年) - 東京物理学校維持同盟員となる。
  • 1887年(明治20年)3月 - 山口高等中学校の教諭兼教頭となる。
  • 1888年(明治21年) - マニラ初代領事となる。
  • 1890年(明治23年)8月 - 帰国し、農商務省特許局審判官及び高等商業学校教授となる[3]
  • 1893年(明治26年)5月 - 鹿児島高等中学造士館教授に転任[3]
  • 1896年(明治29年)
    • 1月 - 病気により帰京[3]
    • 8月 - 京都商業学校長となる[3]
  • 1899年(明治32年)1月 - 病気により辞職し、帰京[3]
  • 1903年(明治36年)
    • 8月19日 - 正六位に叙せられる[3]
    • 8月20日 - 死去。

著書等

  • カタラン原著、谷田部梅吉纂訳『幾何練習書』中外堂、1884年(明治17年)12月
  • 大森俊次、谷田部梅吉訳『零細訓蒙代数学』三省堂、1887年(明治20年)11月
  • トドハンター(英語版)著、大森俊次、谷田部梅吉訳『訓蒙代数学 上編』水津郁等、1887年(明治2O年)11月
  • 谷田部梅吉編『簡易平算書』吉岡書籍店、1888年(明治21年)9月
  • 中村精男、谷田部梅吉編『三角法階梯』金港堂、1889年(明治22年)12月
  • 谷田部梅吉「馬尼剌形勢之一斑」『東京地学協会報告』、1890年(明治23年)
  • 谷田部梅吉著『平面幾何学』博文館、1893年(明治26年)8月
  • 谷田部梅吉編『新編幾何教科書』金港堂、1894年(明治27年)、1895年(明治28年)

参考文献

  • 『東京物理学校五十年小史』(東京物理学校、1930年)

脚注

  1. ^ 『東京物理学校五十年小史』p.196
  2. ^ a b 『東京物理学校五十年小史』p.53
  3. ^ a b c d e f g h 『東京物理学校五十年小史』p.54
日本の旗 在マニラ日本領事
領事
  • 谷田部梅吉1888-1890
  • 中村孟1892-
  • 閉鎖1893
  • 再開1896
  • 赤塚正助1896-
総領事
大使
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