頼近美津子

よりちか みつこ
頼近 美津子
プロフィール
本名 鹿内 キャサリーン 美津子
出身地 日本の旗 日本 広島県
生年月日 1955年8月1日
没年月日 (2009-05-17) 2009年5月17日(53歳没)
血液型 A型
最終学歴 東京外国語大学
職歴NHKアナウンサー
フジテレビアナウンサー
活動期間 1979年 -
2009年
ジャンル 報道・情報・音楽・バラエティ
配偶者 鹿内春雄
(フジサンケイグループ総帥)
著名な家族 MEG (従妹・芸術家)
出演番組・活動
出演経歴ばらえてい テレビファソラシド
NHKニュースワイド
小川宏ショー
『FNNニュースレポート11:30』など
その他 コンサートプランナー、女優など
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

頼近 美津子(よりちか みつこ、1955年昭和30年〉8月1日 - 2009年平成21年〉5月17日)は、日本の女性アナウンサー[1]。本名、鹿内 キャサリーン 美津子(しかない キャサリーン みつこ[1][2])。旧姓、頼近(よりちか)[3]

広島県安芸郡府中町出身[4][5][6]広島大学附属高等学校[5]東京外国語大学卒業。身長162cm[2]

テレビアナウンサーとして最初はNHKに勤務し、後にフジテレビに転じた。また、後年にはコンサート・プランナー、司会、女優としても活動した[1]フジサンケイグループ創業家に嫁いだ玉の輿婚でも知られ[1][7]、結婚後の姓で「鹿内 美津子[3]」とも名乗った。

来歴・人物

NHKからフジテレビに転身し、その後にはフジサンケイグループ創業家に嫁ぐなど多くの話題を提供、このような経歴はその後にタレント化した「女子アナ」の元祖ともいわれる[1][6][8][9][10][11][注 1]。女子アナのタレント化が一気に進むのは頼近の登場からといわれ、頼近が高額年俸でフジテレビに移籍したことを契機に、報道からバラエティまで、あらゆる番組で女子アナブームが巻き起こり「女子アナの時代」が到来することになった[12]週刊ポストは頼近を「女子アナブームのパイオニア」と論じている[12][注 2]

生い立ち

祖父母は広島からアメリカへ移住した日系一世だった[1]。父親はアメリカ生まれの日系二世で[2][6][14]第二次世界大戦後広島市に移り、原爆傷害調査委員会(通称:ABCC、現在の放射線影響研究所)に勤務した[9]。同郷で父親がアメリカ生まれの日系二世、弟1人の4人家族[14]というのも、後に慕った田丸美寿々との共通点である[2][11][14][15][16]

幼少時からクラシックに馴染み[17]ピアノチェロを学ぶ[1][5]。小学校3年生のとき広島に桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室が開設されるとこれに通った。齋藤秀雄に才能を見込まれ、東京に出て本格的にチェロを学ぶことを勧められたが家族会議の末に断念。広島の進学校に高校卒業まで通った後、東京外国語大学に進学した[9]

スポーツも好きで、大学在学中にはスキー部に所属[2][14]

NHKアナウンサー

1978年東京外国語大学を卒業すると、600倍という難関を突破して[18]、NHKに入局した[1][3][5]。半年研修後、天気予報でデビュー[18]

入局2年目に放送が開始されたゴールデンタイムバラエティ番組、『ばらえてい テレビファソラシド』の司会進行役として異例の抜擢をされ[1][7][11]、「女性アナウンサーが芸能番組に主役で登場するのはNHK開局以来」と言われ注目を集めた[1][11][19]。女子アナがバラエティ番組に出ることも、台本から離れてフリートークで話すのも初めての試み[11]。これは司会の永六輔からの推しといわれる[7]。また、同番組で共演した当時売り出し中だったタモリからは番組中、本名のミドルネームで「キャサリン」と呼ばれていた[8][12][20]。「英語が堪能でピアノの弾ける新人アナ」としてもアイドル的人気を得た頼近は[7][11]、『週刊TVガイド』の表紙を女子アナとして初めて飾った[12][注 3]。頼近のブレイクを機に「女子アナ」という職業に風が吹き始める[11]。それまでも注目を浴びた女子アナはいたが、それは個々の人気であり、女子アナ全体に風が吹き始めたのは、ここからである[11]。その流れはテレビ界全体に飛び火した[11]

1980年4月から始まったNHK初の早朝ニュースショー、『NHKニュースワイド』でも、初代女性キャスターを務めた[1][11](週前半を森本毅郎とのコンビ。週後半は山根基世と森本毅郎・明石勇[22]加賀美幸子の『7時のニュース』も同月から放送開始(頼近と加賀美がNHK初の女性キャスター、民放では1979年4月から始まった『FNNニュースレポート6:30』の田丸美寿々が女性キャスター第1号)[11]。当時、女性アナウンサーは10年経験を積まなければ、出演できなかったといわれていたが[9]、同番組は30%の高視聴率を得た[11]

注目が高まっていた1981年、「自分のことばで語りたい」と[11][23] フジテレビに移籍[1][8][注 4]

民放テレビ局によるNHKアナの引き抜きは[注 5]、これまでにも高橋圭三など多数いたが、女性アナウンサーでは、ほぼ最初のケースであった[26]野際陽子の場合は、NHKを退社した後、フリーとなってTBSの番組に出演したもので引き抜きとは異なる[27]。頼近はフジテレビからのヘッドハンティングである[12]。1981年1月にNHKで行われた退局記者会見は、翌日のスポーツ紙が大見出しで報じ、一般紙も特集記事で後追い報道した[28]。一女性アナウンサーの進退問題がこれほど騒がれたのは前代未聞であった[2][28]タレント性豊かな「女子アナ」ブームの先駆けとなり[1]1980年代初頭当時、“振り向けばテレ東”と揶揄される低視聴率にあえいでいたフジテレビは、頼近以降、メインを張れる女子アナを次々養成していくことになる[11][12]。1981年7月、田丸と共にダイアナ妃結婚の衛星中継ロンドンからレポート[29][30]

フジテレビアナウンサー

フジテレビでは同局史上初の女性正社員となる[8][11]。それまでフジテレビは、女性は全員契約社員でのみ採用する方針を貫いており[8]益田由美城ヶ崎祐子らも当時は契約社員であった[11]。頼近のフジテレビ入社で田丸らも正社員となる[11]。移籍金は1,200万円とも2,000万円とも3,000万円ともいわれ大きな話題を呼んだ[1][注 6]。年収も300万円から1,200万円に跳ね上がったとされ、現在のフリー転向の流れの先駆け的存在でもあった[31]。田丸と頼近でフジの二枚看板などと[18][32]、鳴り物入りでフジテレビに迎えられ『小川宏ショー』の新アシスタントになるが[注 7]、NHKから来たのでミスしてはいけないという気負いから「お高くとまってる」などと見られ、当時のマスメディアに散々たたかれた[24][34]。各方面から批判を受けていたこの年、映画監督の野村芳太郎がフジテレビ専務の村上七郎と中学の同級の関係で、撮影所に見学に来ていた頼近に出演交渉して松竹映画真夜中の招待状』にバーのママ役で出演した[35]。頼近はNHKから移籍する際「私はジャーナリスト」とミエを切ったこともあってゴタゴタが起きた[35]。話題づくりのため、頼近の出演を大いに宣伝したい松竹サイドと、この程度の出演で女優と宣伝されては主婦層の反発を買うと恐れたフジテレビの間で揉めた[35]。『週刊宝石』1982年4月17日号は「第2の田丸・頼近を目指すテレビ局の新人美女を全角度品さだめ! ブラウン管に登場するフレッシュギャルを誌上紹介」というタイトルで[36]、「いつの世にも、うら若き女性の"あこがれの職業"は存在するもので昨今の花形といえば、さしずめ、TV局の美人アナ(まだ「女子アナ」という言葉の使用は見られない)ということになろうか(中略)このところ、田丸美寿々と頼近美津子の人気はうなぎ登り。2人ともフジテレビの"美人アナ"だが、本業のほかに田丸がエッセイをものにすれば、頼近も負けじとレコードを吹き込み、そのうえ「チャンスがあればドラマにも」と意欲満々。こうした2人の活躍で、これまでにないタレント的な女性アナウンサーが、クローズアップされてきたといえるだろう。そんな背景もあって、テレビ局のアナウンサーをめざす才色兼備の女子大生は増えるばかり」と書いている[36]。『週刊宝石』の記者が頼近に取材のため、フジテレビ報道局を訪ねたら、深窓の令嬢風の頼近がタバコをスッパー、スッパーやりながら同僚と雑談していて驚いたという[18]

元々、頼近のフジ移籍は、視聴率の低迷していた『小川宏ショー』に出演依頼を受けたからだったが[28]、同番組は一年後に終了。続いて露木茂と組んで『ニュースレポート11:30』を担当した[37]

結婚

1984年、当時フジテレビの副社長だった鹿内春雄と結婚(春雄は再々婚)しフジテレビを退社[1][8]。これも玉の輿婚とマスコミを賑わせた[1][8][10]。2児をもうけるも、結婚からわずか4年後の1988年、春雄はB型肝炎による急性肝障害のため42歳で病死し、頼近は未亡人となった[1][10]

林真理子1989年の著書『幕はおりたのだろうか』の萩野夏美は田丸、倉田恵子のモデルは頼近である[7]。田丸と頼近は「女子アナ」として生き方のロールモデルを後続に示した[7]。『幕は・・・』は1990年にテレビ東京で『女キャスター物語』としてテレビドラマ化されている(テレビ東京日曜9時連続ドラマ)[7]

夫との死別後

フジテレビは春雄の後継問題と社内抗争で揺れ、美津子は1990年、2人の息子とともに渡米した[1][10]。頼近はワシントンD.C.に居住し、スミソニアン博物館ボランティアとして働いた。

春雄は豪邸の他、フジテレビの親会社にあたるニッポン放送株を大量に所有しており、実質的にはその株のほとんどを未亡人である頼近が相続することになり、フジテレビは美津子の支配下に置かれかねない状況となっていた[10][9][38]。これに慌てた春雄の父・鹿内信隆はなりふり構わずニッポン放送株を取り戻そうとして、美津子が相続した時価にすれば100億円は下らないニッポン放送株は鹿内家に6,600万で買い戻された[9][10][38]

1993年、古巣のNHKでテレビ復帰[1]1996年には、NHK大河ドラマ『秀吉』に出演[1]。同年12年ぶりにフジテレビ『来日直前!三大テノール』の司会者として復帰。コンサートプランナーやクラシックコンサートの企画構成、ナレーションなどを行いながら、日本音楽財団日本音楽作家協会理事などを務め幅広く活動した[5]。「コンサートプランナー」という肩書きは、頼近が使ってから知られるようになったもの[39]

2004年平成16年)、大田区田園調布の豪邸を売却して世田谷区野毛のマンションに移る。

2007年食道ガンと診断され、翌年9月に通院のため千葉県流山市のマンションに転居した。頼近もガン治療を受け続けたものの、2009年5月17日午後1時46分、柏市の病院にて53歳で死去した[1][5]。直接の死因は心不全であった[40]。墓所は小平霊園

家族

歌手で、ファッションデザイナーのMEGは従妹にあたる。

出演番組

テレビ

NHKアナウンサー時代

フジテレビアナウンサー時代

報道・情報番組
期間 番組名 役職
1981年4月 1982年3月 小川宏ショー サブ司会
1982年4月 1984年7月13日 FNNニュースレポート11:30 メインキャスター
報道・情報番組以外

フリーランス時代

  • おはようテレビ朝日(1984年10月 - 1985年9月、テレビ朝日
  • 名曲音楽館 ゆかいなゆかいな春の祭典(1993年4月1日、NHK総合)
  • 全国交通遺児チャリティコンサート(日本音楽作家協会)(1993年6月|NHK総合)
  • 新装ルーブル美術館まるごと大中継(1994年4月4日 - 8日、NHK-BS2
  • スミソニアン・ミュージックフェスティバル(1994年8月2日 - 5日、NHK-BS2)
  • 国民文化祭とちぎ'95オープニングフェスティバル やさしさの森を世界に(1995年10月29日、NHK総合)
  • 秀吉(1996年1月 - 12月、NHK) ※お市の方
  • モーツァルト住家復元完成記念スペシャル企画「いま甦るモーツァルト」(1996年3月3日、TBS)[42]
  • 新春美術特集 モネと日本人の物語(1997年1月1日、NHK教育)
  • リチャード・クレイダーマンのピアノレッスン(1998年1月 - 4月、NHK教育) ※司会
  • 溶けあう心の絵の具〜少年画家・浅井力也の世界 -BS10周年スペシャル-(1999年9月30日、NHK-BS2)
  • 連続ドキュメント 五嶋龍のオデッセイ(1996年 - 2005年、フジテレビ) ※パーソナリティ[43]

ラジオ

映画

雑誌

  • 「ムジカノーヴァ」(音楽之友社) 連載「頼近美津子の音楽教育etc.トーク」 2002年1月号-2009年6月号(音楽ニュース - 音楽之友社 OnLine〈2009年12月27日時点のアーカイブ〉)
  • 「HERS」 2008年5月号(光文社) 表紙&カバーストーリー

脚注

注釈

[脚注の使い方]
  1. ^ 「週刊サンケイ」1981年2月19日号24頁や「週刊新潮」1981年5月14日号35頁に、頼近や田丸を"美人アナ"と紹介した記事が見られる。1981年から1982年にかけての頼近の記事には"女子アナ"と書かれた記述は見られない。
  2. ^ 泉麻人も「今日にいう女子アナの登場は頼近からではないか」と述べている[13]
  3. ^ 1981年12月18日号が柄本明と、1983年7月19日号が単独で、計2度表紙を飾る。「TVガイド」の表紙は創刊号が高橋圭三だったのを始め、毎年『NHK紅白歌合戦』のシーズンに司会のNHKアナが表紙を飾ったが、それまでは全て男性アナのため、女子アナで表紙に登場したのは頼近が初めて。ただし単独表紙としては1983年6月10日号の宮崎緑の方が少し早い[21]
  4. ^ 小川宏ショー』と専属契約を結んだのは1981年1月27日[24]。『小川宏ショー』は1981年3月30日放送から出演[24]
  5. ^ 当時の週刊誌に「頼近はフジテレビに引き抜かれた」という記事が見られる[25]
  6. ^ この時の移籍金額は文献によりかなり異なる。「週刊ポスト」2012年1月1・6日号などの記事では1,200万円[8]。「週刊文春」1981年12月24、31日号の記事では推定1,000万円(月給約90万円)[24]。スポニチでは3,000万円[6]
  7. ^ 『小川宏ショー』では「ホステス」という言い方を用いていた[33]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u “頼近美津子 | 時事用語事典”. imidas. 集英社 (2009年). 2023年6月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 週刊サンケイ」1981年3月19日号、183頁
  3. ^ a b c NHKアナウンサー史編集委員会 編「NHKアナウンサー一覧」『アナウンサーたちの70年』講談社、1992年12月21日、23頁。ISBN 4-06-203232-5。 
  4. ^ “お好みアツアツトーク”. 2010年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年2月27日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 会報『アカシア』全国版、会報『アカシア』全国版 2009年7月(425)号 p.3– 広島大学附属中・高等学校同窓会「アカシア会」公式サイト
  6. ^ a b c d “asahi.com(朝日新聞社):元祖美人アナ頼近美津子さんが死去”. 朝日新聞. (2009年5月20日、35面). オリジナルの2012年7月21日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/DME0 
    “寿引退”アナは頼近美津子さん、芸能界なら山口百恵さんら アーカイブ 2014年8月8日 - ウェイバックマシン、美人女子アナの草分け…頼近美津子さん死去 スポニチ Sponichi Annex アーカイブコピー - ウェイバックマシン、女子アナブームのはしり 頼近美津子さん死去 スポニチ Sponichi Annex
    元祖美人アナ頼近美津子さんが死去、53歳
    元祖アイドルアナ頼近美津子さん、食道がんで死去 - 芸能:ZAKZAK アーカイブ 2012年5月23日 - ウェイバックマシン
    齋藤薫の美容自身 Stage2|理想の女性像|i-VoCE アーカイブ 2014年7月28日 - ウェイバックマシン
    サンケイスポーツ、2009年5月20日、21面
    週刊ポスト」2009年6月5日号 小学館、30頁
    女性自身」2009年6月9日号 光文社、50頁
    「週刊ポスト」2012年1月1・6日号、58-61頁
  7. ^ a b c d e f g 幕は降りたのだろうか – マリコ書房 - 林真理子YouTubeチャンネル
  8. ^ a b c d e f g h フジテレビ女子アナ、かつての「最強軍団」はいかに生まれたか、日本初の女子アナ 1年で退社し9年後年下男性と心中した(NEWSポストセブン)河野景子、八木亜希子ら80年代フジ女子アナ列伝 - NEWSポストセブン、史上最強の女子アナ調査 「最も美しい女子アナ」はカトパン、フジテレビの女子アナ 野球選手との結婚が少なくなった理由
  9. ^ a b c d e f 高橋幸春「元祖女子アナ 頼近美津子「53歳食道がん死」の寂寥 (去りゆく昭和--大いなる時代を生きた波瀾万丈の人生の足跡)」『文藝春秋』2009年7月号、文藝春秋、276–283頁。 
  10. ^ a b c d e f “プレイバック!FRIDAY 1985年6月21日号 頼近美津子&鹿内春雄”. 2014年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月26日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “指南役のTVコンシェルジュ第23回 「女子アナの歴史」(前編)”. チェリー 永遠のオトナ童貞のための文化系マガジン. トレンダーズ (2017–07–21). 2023年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月1日閲覧。
  12. ^ a b c d e f 「週刊ポスト」2012年1月1・6日号、58-61頁 「史上最強の女子アナは誰だ!!」
  13. ^ 『アナウンサーのすべて 女性編』共同通信社1998年、60頁
  14. ^ a b c d 「美人アナウンサー・ライバル戦争 田丸美寿々VS頼近美津子 大学の先輩・後輩、よく似た境遇のふたりが同じテレ簿局で火花を散らす! 軍配は、どちらに?」『週刊平凡』1981年4月2日号、平凡出版、174–177頁。 
  15. ^ 『「家」の履歴書』光人社、2001年
  16. ^ “元職員・関係者の追想録 - 放射線影響研究所Darling 所長時代 - 変化の15年間”. 2015年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月26日閲覧。
  17. ^ 「週刊新潮」1981年4月30日号、131頁
  18. ^ a b c d 「フジテレビの女子アナの目立ちたがり戦争花盛り 再び野球拳で脱いだ田丸、連日ゲームセンター通いの頼近、フジの看板娘山村、益田……。人気女子アナの奮闘ぶりは?」『週刊宝石』1982年10月29日号、光文社、214–217頁。 
  19. ^ 追悼・元祖女子アナ頼近美津子「テレビファ」配信-NHKオンデマンド、クイズ・バラエティー ばらえてぃ「テレビファソラシド」
  20. ^ テレビファソラシド - NHKオンラインアーカイブ 2015年4月2日 - ウェイバックマシン
  21. ^ 『表紙で振り返るTVガイド50年』、東京ニュース通信社
  22. ^ 平賀拓史 (2023年5月24日). “第3回 山根基世、アナウンサー人生最大の試練 「働く女」の代表なのに”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). オリジナルの2023年5月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20230524023450/https://www.asahi.com/articles/ASR5K45DFR3NUCVL028.html 2023年6月1日閲覧。 
  23. ^ サンデー毎日」1981年6月14日号、145頁
  24. ^ a b c d 「週刊文春」1981年12月24、31日号、159-160頁
  25. ^ 「週刊サンケイ」1981年2月19日号24頁、「週刊朝日」1981年4月17日号37頁
  26. ^ 週刊新潮」、1982年8月26日号、82頁
  27. ^ 『日本映画俳優全集・女優編』、キネマ旬報社、1980年、508頁
  28. ^ a b c 「週刊サンケイ」1981年2月19日号、24-26頁
  29. ^ 佐藤孝吉『僕がテレビ屋サトーです-名物ディレクター奮戦記』文藝春秋、2004年、312-317頁
  30. ^ 週刊朝日」1981年8月24日号、43頁
  31. ^ “頼近美津子さん死去!食道がん闘病2年…早すぎる53歳”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2009年5月20日). オリジナルの2009年5月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090522014012/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20090520-OHT1T00006.htm 2009年12月2日閲覧。 
  32. ^ 「週刊朝日」1982年12月25日号、40頁
  33. ^ 「週刊朝日」1982年2月13日号35頁、5月21日号121頁
  34. ^ 週刊朝日」1982年5月21日号、120-122頁
  35. ^ a b c 「週刊文春」1981年8月2日号、19頁
  36. ^ a b 「第2の田丸・頼近を目指すテレビ局の"新人美女"を全角度品さだめ! ブラウン管に登場するフレッシュギャルを誌上紹介」『週刊宝石』1982年4月17日号、光文社、200–203頁。 
  37. ^ 喜怒哀楽のサラリーマン時代 露木茂さん<5>日航機墜落事故後に現場ひと筋と腹くくった アーカイブ 2023年6月1日 - ウェイバックマシン
  38. ^ a b 中川一徳『メディアの支配者(下)』、講談社、2005年、171-179頁
  39. ^ AERA」2009年6月1日号 朝日新聞出版、74頁
  40. ^ “元NHKアナウンサー・頼近美津子さん、食道がんで死去”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2009年5月19日). オリジナルの2009年5月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090522103529/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20090519-OYT1T00690.htm 2009年5月19日閲覧。 
  41. ^ NHKアナウンサー史編集委員会 編「第六章 キャスター、リポーター時代 キャスターの時代」『アナウンサーたちの70年』講談社、1992年12月21日、346頁。ISBN 4-06-203232-5。 
  42. ^ “WORKS 実績紹介 - 知的好奇心をくすぐる広告代理店 ビデオプロモーション”. 2012年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月1日閲覧。
  43. ^ 頼近美津子 - オリコンTV出演情報

参考文献

  • NHKアナウンサー史編集委員会 編『アナウンサーたちの70年』講談社、1992年12月21日。ISBN 4-06-203232-5。 

外部リンク

  • 頼近美津子さん | Interview | No.47 | 広報誌 財団法人ヤマハ音楽振興会〈アーカイブ
FNNスピークシリーズ歴代キャスター
期間 タイトル 男性 女性
月 - 金 月 - 水 月 - 水
1982.4.1 1984.7.13 FNNニュースレポート11:30 放送なし 露木茂1・2 放送なし 頼近美津子3 放送なし
1984.7.16 1986.2.21 小出美奈
1986.2.24 1986.2.28 永麻理4
1986.3.3 1986.3.21 吉崎典子4
1986.3.24 1986.5.16 石野紀代子4
1986.5.19 1987.3.31 小出美奈
1987.4.1 1987.9.30 須田哲夫2
1987.10.1 1988.3.31 FNNスピーク
1988.4.1 1988.12.30 露木茂2 野間脩平2 牛尾奈緒美 城ヶ崎祐子
1989.1.4 1989.3.10 城ヶ崎祐子
1989.3.13 1989.3.17 城ヶ崎祐子 長野智子
1989.3.20 1991.3.29 永麻理
1991.4.1 1992.3.31 野間脩平2 山中秀樹2・5 松尾紀子
1992.4.1 1992.8.22 FNNスピーク 放送なし 堺正幸6 山中秀樹5・6・7・8 城ヶ崎祐子 松尾紀子 木幡美子 放送なし
1992.8.24 1993.3.31 木幡美子 近藤サト
1993.4.1 1994.3.31 向坂樹興6 山中秀樹8 河野景子 田代尚子 阿部知代8・9
1994.4.1 1995.4.1 堺正幸6 田代尚子
1995.4.3 1996.3.30 牧原俊幸
1996.4.1 1997.3.29 川端健嗣8 木幡美子 平松あゆみ
1997.3.31 1998.3.28 近藤サト 木幡美子8
1998.3.30 1998.9.26 向坂樹興8
1998.9.28 1999.3.31 田代尚子
1999.4.1 2000.4.1 牧原俊幸9
2000.4.3 2000.11.30 木幡美子 高木広子
2000.12.1 2002.3.30 高木広子 佐藤里佳9
2002.4.1 2005.6.25 川端健嗣 智田裕一9
2005.6.27 2006.9.30 吉田伸男5
2006.10.2 2008.9.27 奥寺健2 島田彩夏2
2008.9.29 2009.9.26 野島卓5 藤村さおり
2009.9.28 2011.3.26 石本沙織
2011.3.28 2012.9.29 境鶴丸 福原直英 藤村さおり9
2012.10.1 2014.3.29 野島卓 戸部洋子9
2014.3.31 2014.4.26 石本沙織
2014.4.28 2014.7.12 石本沙織 山中章子5
2014.7.14 2014.9.27 斉藤舞子
2014.9.29 2016.4.1 斉藤舞子 山中章子5
2016.4.2 2016.12.25 FNNスピーク FNNスピークWeekend 奥寺健12 なし 山中章子10
2017.1.4 2017.3.26 山中章子 藤村さおり
2017.3.27 2017.10.1 山中章子
2017.10.2 2018.4.1 山中章子11・12 竹内友佳12
  • 10  平日昼の『サンケイテレニュースFNN』から続投。
  • 20  同日10時台の情報番組ニュースコーナーを兼務(詳細は各番組のページを参照)。
  • 30  結婚退社のため降板。
  • 40  小出の一時休養に伴う代役。
  • 50  日曜昼の『産経テレニュースFNN』を兼務(詳細は当番組のページを参照)。
  • 60  同日午後のスポットニュースを兼務(詳細は各番組のページを参照)。
  • 70  土曜昼の『産経テレニュースFNN』から続投。
  • 80  同日夕方のニュースを兼務(詳細は各番組のページを参照)。
  • 90  同日朝のニュースを兼務(詳細は各番組のページを参照)。
  • 10  『産経テレニュースFNN』より続投。
  • 11  『めざましどようび』を兼務。
  • 12  『FNNプライムニュース デイズ』も続役。