高野信
たかの まこと 高野 信 | |
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生誕 | (1903-12-17) 1903年12月17日 福島県いわき市 |
死没 | (1982-01-09) 1982年1月9日(78歳没) 東京都 |
死因 | 心筋梗塞 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学 |
職業 | ジャーナリスト、実業家 |
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高野 信(たかの まこと、1903年(明治36年)12月17日 - 1982年(昭和57年)1月9日)は、日本のジャーナリスト、実業家。九州朝日放送(KBC)、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)社長を務めた。
経歴・人物
福島県いわき市出身[1][2]。1929年(昭和4年)東京帝国大学を卒業後、朝日新聞社に入社する[2]。
東京本社編集局長、西部本社代表、国策パルプ代表などを歴任し、1967年1月から1973年5月までに九州朝日放送社長を務め、1973年5月から1974年11月までに同社会長を務めた[2]。
1974年(昭和49年)11月、NET社長に転じ、同じ朝日出身の副社長、中川英造と相談し三浦甲子二を編成、制作担当役員に抜擢した[3][2]。三浦は持ち前の行動力を生かし、77年3月、モスクワ五輪の独占放映権獲得に成功する[3]。しかし、ソ連のアフガニスタン侵攻でアメリカに追随した日本は、モスクワ五輪の不参加を決定した[4][1]。日本チームの参加しない五輪など誰も見ないため、五輪放映は大幅に縮小され[5]、さらに約20億円もの損失を被った[6]。
1982年1月9日、心筋梗塞のため東京都内の病院で死去[1]。78歳没。
著書
- 『アメリカ特派』朝日新聞社、1949年。
脚注
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参考文献
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※日本教育テレビ(NET)時代から通しで記載。社名・通称の変更は、1回目に6代目社長(高野信)時代に(日本教育テレビ/NET→ 全国朝日放送/テレビ朝日/ANB)、2回目に11代目社長(広瀬道貞)時代に実施(全国朝日放送/テレビ朝日/ANB → テレビ朝日/EX)。 |